生体のエネルギー通貨である ATP の合成酵素の研究については、回転説の証明など、日本人の貢献も多大ですが、その歴史を遡ると、Peter Mitchell 博士の「化学浸透圧説」に辿り着きます。
ADP とリン酸から ATP をつくる上り坂反応において、呼吸で発生するエネルギーがどこかの反応過程(中間状態)に使われるだろうと議論されていた時代に、Mitchell 博士は、膜を介したイオン輸送による濃度勾配の形成がエネルギー源になるという誰も予想すらしなかった新奇モデルを提唱しました。これが「化学浸透圧説」です。

Mitchell 博士はエジンバラ大学に在籍していた1961年にそのアイデアを Nature 誌にレターとして発表したのですが、周りに全く理解されず、直後に大学を辞めて、英国南部の私設の研究所(Glynn 研究所)で研究を続けました。興味深いことに、「化学浸透圧説」のフルペーパーは学術雑誌に掲載されることなく、地元の印刷所で出版された2冊の本として世に残りました。これが "Grey Books" として知られる2冊の本であり、わずか千部ほどしか印刷されていないようです。

ラボHPの「お知らせ」にこのような生体エネルギー研究の歴史をなぜ書くかというと、この本が今、私の机の上にあるからです。
名工大の海外研究ユニット招致プロジェクトで招へいしたロンドン大学の Peter Rich 博士は、1987年から Mitchell 博士に続く2代目の Glynn 研究所所長をされています。今回の来日に際して、残部わずかな "Grey Books" の原本を、生体エネルギー変換の末席にいる私にプレゼントしてくれたのです。

1冊は、P. Mitchell, "Chemiosmotic Coupling in Oxidative and Photosynthetic Phosphorylation" (1966).
もう1冊は、P. Mitchell, "Chemiosmotic Coupling and Energy Transduction" (1968).

50年前の本と思えないような「見栄えの新しさ」から、2人のピーターがこの本をいかに大切に保管してきたかがよくわかります。この本が出版された頃、誰も信じないどころか、理解すらできなかった考え方が、今やどの教科書にも載っている常識になっています。実に面白いものですね。「生物物理化学」を受講している学生さんにぜひ手にとってもらいましょう。
(151103 文責 神取)